(50) エゴー・エイミ

仮庵の祭りは終わり、群衆は皆、それぞれの町へ帰って行きました。しかしイエスはまだエルサレムにとどまり、宗教的指導者たちに、ご自分が何者かを明かされます。

☆わたしは世の光です。(ヨハネ 8:12)

《[Sukkot](仮庵の祭り)で画像検索》

仮庵の祭り[1]では、荒野をさまようユダヤの民のために、神さまが雲の柱・火の柱で守り導いてくださったこと(出エジプト13章)にちなみ、燭台やかがり火をあかあかと灯します。祭りの終わりとともにその火は消されますが、イエスは永遠に消えることのない光です。ずっと私たちを導いてくださいます。

それは人類にとって究極の希望でしたが、自分たちの信念と立場を守ることに必死の指導者たちにはどうしても受け入れられません。
あのな、自分で自分のことを証言するのは無効なの! 律法によれば2名の証人が必要なの!…
イエスはお答えになります。
「神の子である私と、私をお遣わしになった父なる神とが証人です」。
その答に指導者たちは…
うーーーっ 父って誰よ! どこにいんのよ!?
それはもうさんざん聞かされてきたはずなのに… そもそも「2名の証人が必要」なのは被告人の場合です。彼らの頭の中では、イエスはすでに裁判の席にいたのでしょう。

イエスは彼らに、くりかえしくりかえし真実を理解させようとなさいます。あなたがたはこの世の者ですが、私は「上から来た者」です。あなたがたがそれを知ろうとしないならば、あなたがたは私の行くところに来られません。罪の中で死ぬことになるでしょう。もしもあなたがたが、“私がそれである”(エゴー・エイミ)と信じないならば。

新約聖書の原語=ギリシャ語で「エゴー・エイミ(ἐγὼ εἰμί)」。英語で言うなら「I am」。日本語なら…「私は、存在する」。人類の誰が何と考えようが、信じようが信じまいが、絶対的に“存在している”者。その方についていくかいかないかで、人生の結末は正反対になってしまう…。実際にイエスのお言葉には神の権威があったようです。この時に聞いていた人々の中には、信じた者もおおぜいいました。

☆アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(ヨハネ 8:58)

エゴー・エイミ
『わたしはある』という者 (出エジプト 3:14)

ところが、一旦は信じようと思った人々も、次にイエスがおっしゃったことにひっかかってしまいました。

もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、
あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
また真理を知るであろう。
そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。

(口語訳聖書 ヨハネ 8:31–32)

「自由に!?」…日本人にとっては、自由になるなんてイイじゃん♪という感じですが、ユダヤ人には敏感にならざるを得ない言葉です。彼らは大国に屈服し、国を奪われ、奴隷として支配される歴史を長く歩んで来ました。その時だって、彼らはローマ帝国の支配下にあったのです。でも信仰だけは! 神に選ばれた民族としての誇りだけは! 我らのものだ、我らの魂は何者にも支配されちゃいない、自由だ!

「我々は奴隷じゃないっ!」
いいえ、“罪の奴隷”です…
「我々はずっと“民族の父アブラハムの子孫”だっ。他の誰にも服従なんかしていない!」
アブラハムの子なら、私を殺そうとはしないでしょう… 
「我々の父は一人、神だ!」
いいえ。神から遣わされた私を信じないなら、あなたがたは“悪魔の子”です。罪の中に滅びる。だが私を信じる者は死ぬことがない…。

指導者たちは完全にブチ切れました。
「狂ってる!! アブラハムでさえ死んだんだぞ!」
アブラハムは私を見て喜びましたよ…
「ハアアァ!? アブラハムを見たってか!?」
そう。アブラハムが生まれる前から“私はいる”(ἐγὼ εἰμί)のだから…。

参考

[1] 「仮庵の祭り」はいわゆる収穫感謝祭です。今の暦で言うと10月中旬頃、8日間に渡って行なわれます。モーセの時代、エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野で「仮住まいのテント」暮らしをしました。そのことを代々記憶していくため、木の枝などで粗末な小屋を作り、祭りの間中を過ごすのです(レビ 23:34–43)。

ぬりえ

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