(56) 金持ちとラザロのたとえ

宗教指導者たちの中でも、パリサイ派の律法学者たちはたいへん厳しくユダヤの民を指導していました。が、彼ら自身が根っこのところで大きな間違いを犯していました。

☆あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。(ルカ 16:15)

パリサイ人たちは、民に厳しいだけでなく、自分たちもがっつりと律法どおりに生活していました。モーセの律法に基づいて細かく規則を定め、命がけで守っていました。民にはうるさく言うが、自分らはだらしないということもなく、だから民衆には尊敬され、人気もあったのです。

しかし、肝心なところが間違っていました。神の前に正しい者でなく、人の前に正しい者になろうとしていたのでした。聖書の教えは「神を愛し、人を愛することによって自分の行ないを決めなさい」というものです。が、彼らは「どうしたら人の前に正しく見えるか」を目安に行動していました。人から立派に見えるように祈る。信仰深く見える物を身に着ける。しかもそれを大きくして目立たせる! 神にも人にも「ホラ、私はこんなに正しい!」とアピールするのが大事だと思っていたのです。

そんな彼らに、イエスははっきりとおっしゃいました。
あなたがたがどれほど「自分は正しい」と主張したところで、神の国に入るのに何の役にも立たない。それどころか神に憎まれるだろう。なぜなら神は、あなたがたの心をご存じだから…

☆「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると…」(ルカ 16:23)

金持ちとラザロのたとえ(1)
ある金持ちが、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
金持ちとラザロのたとえ(2)
門前にいるラザロは病気で、貧しく、食べるものもない。
金持ちとラザロのたとえ(3)
やがてラザロは死に、金持ちも死んでしまった。
金持ちとラザロのたとえ(4)
御使いたちはラザロを、父祖アブラハムのもとへ連れて行った。
金持ちとラザロのたとえ(5)
しかし金持ちはハデスに落ちて焼かれる!
金持ちとラザロのたとえ(6)
「熱い! アブラハムさま 私に水を〜」「ムリだ。そちらには渡れん。」
金持ちとラザロのたとえ(7)
「では私の兄弟の所にラザロをやって、ここに来るなと伝えさせてください。」
金持ちとラザロのたとえ(8)
「モーセの教えを聞かぬ者は、死人が生き返って来ても聞かぬだろうよ。」

そんなパリサイ人の中に「金がスキ♡」な人たちがいました。当時、金持ち=神に祝福された者という考え方があったのです。イエスは彼らに、こんなたとえ話を聞かせます。

「ある金持ちが毎日ぜいたくをしていた。家の門前にラザロという貧しい病人がいて、金持ちの食卓の残飯でもいいから恵んでほしいと願っていたが、一切もらえぬまま死んでしまった。彼は御使いたちによって、ユダヤの父祖アブラハムの元に連れて行かれた。やがて金持ちも死んだ。

ハデス(地獄のような所)に落ちた金持ち[1]が目を上げると、父祖アブラハムが遠くに見えた。そのふところにはラザロがいる。彼は叫んだ。『アブラハムさま、あわれみを! 炎で苦しくてたまりません。ラザロに水を持って来させてください!』 が、アブラハムは言う。『生きている間、おまえは良い物を受けたが、ラザロに分け与えなかった。今ラザロは慰められ、おまえは苦しんでいる。それに…

『わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、
こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、
そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』

(口語訳聖書 ルカ 16:26)

『ではラザロを私の兄弟の所に送り、こんな苦しい場所に来ないよう伝えさせてください』と金持ちがすがっても、『彼らはモーセの教えを聞けばよい』と言うアブラハム。『いいえ、死んだ者が行って伝えれば、彼らは悔い改めるでしょう!』 だがアブラハムは答えた。『モーセの言葉を聞かぬなら、死人が生き返っても聞きはしない』」

パリサイ人は本当によく聖書を研究していました。彼らの教えはイエスの教えとそんなに違わないくらいです。が、彼らの行ないには、愛がありませんでした。それは、神の国に入れてもらえぬほどの、重大な問題だったのです。

参考

[1] 文脈から判断がつくと思いますが、このたとえは「貧乏人は天国に入れていただけるが、金持ちは地獄に落ちる」という意味で使われているのではありません。神に仕えると言いながら金も愛しているパリサイ人たちへの警告として語られたものです。実在のラザロをモデルにしているわけでもないし、“裕福であること”や“金もうけがうまいこと”を、聖書は決して否定的に描いてはいません。「金持ち vs.ラザロ」という図式を強調せず、“金は持っているが、愛は持っていない”ことは神さまが喜ばれない、という部分にフォーカスした方がよろしいかと思います。

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