(55) 帰って来た放蕩息子のたとえ

宗教指導者たちはイエスのなさることの何もかもが気に入りませんでした。「安息日の決まりを守らぬ!」だけではもちろんなかったのです。

☆取税人、罪人たちがみな、…みもとに近寄って来た。(ルカ 15:1)

指導者たちは「律法を守らぬ者はすべて罪人」と定め、またそのように民を指導していました。安息日に働く者もそうですが、不正な商売をする者、不倫する者、酒飲み、売春婦… みんな罪人。そもそも律法を知らない外国人も罪人。彼らとは、口をきいてもいけないし、ふれ合ってもダメだし、ましてや一緒に食事をするなどもってのほか!そんなことをすれば自分も汚れるぞ!と教えていました。

ところがです。あのイエスはなんと、そんな罪人連中と親しくするわ、家に呼ぶわ、それどころか仲良く飲んだり食べたりするわ…! 信じられん… どういうつもりだ…

つぶやく彼らに、イエスは3つのたとえ話をきかせます;
①羊を百匹持っている人が、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩くでしょう。見つけたら大喜びし、友だちや近所の人たちを呼んでお祝いするでしょう。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
②女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃除して、見つけるまで念入りに捜すでしょう。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼んでお祝いするでしょう。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。

☆「父親は彼を見つけ、…走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカ 15:20)

帰って来た放蕩息子(4)
「おとうさん、ごめんなさい」「おかえり、息子よ!」

3つめは有名なたとえ話です。
ある人に息子が二人あった。弟息子が父に『おとうさん。私に財産の分け前を下さい』と言うので、父親は身代を兄弟に分けてやった[1]。それからまもなく弟は何もかもまとめて旅立った。彼は遊びまくり、財産を使い果たしてしまう。すべてを失い、食べるにも困った彼が、ある男を頼ると、男は彼に豚の世話をさせた。彼は、豚の食べるいなご豆[2]で腹を満たしたいと思うほどであった…。

我に返って彼は思う。父の家にはパンがあり余り、雇い人もおおぜいいた。なのに私はここで飢え死にしそうだ…。帰ろう。父の家に…! 彼は立ち上がり、家を目指した。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親の方から彼を見つけ、走ってくると、息子を抱きしめた。息子は言う。「おとうさん。私は天にもあなたにも、罪を犯しました。息子ではなく、雇い人としてでいいから、帰りたい…」。だが父親はしもべたちに言った。急いで祝宴の用意を!!

「このむすこが死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったのだから」

(口語訳聖書 ルカ 15:24)

神さまは、ご自分から離れて行ってしまったものが帰ってくるのを、本当に心から待ちわびていらっしゃるのだ。戻って来たなら、走り寄ってかき抱き、御使いらとともに喜びを爆発させる。失われてよい魂などひとつもない…。そう、そのさまよっている魂を捜し出し、神さまのもとに連れ帰るためにこそ、イエスはこの世に来られたのです。

参考

[1] 父親は、次男坊が財産をくれと言ってきた時点で、ちゃんと長男(兄息子)にも取り分を与えています(二等分したか、あるいは長子の方が多めとも考えられる)。しかしイエスさまはこのたとえ話の後半で、次男が帰ってきたあと、家に残っていた長男がいじけるシーンをくっつけて語られました。おとうさんは、好き放題やってきたあのバカ弟のためにパーティ開いてやるのに、家を離れずがんばってる自分にはなんにもしてくれない…!プンスカ(`-´#)。
確かに、早くから、幼い頃からクリスチャンで、ずっとクリスチャンらしく生きようと努力してきた人が、放蕩人生の最後になって「神さま〜」とすがりついてくるようなやつになんで神さまはごほうびをやるんだ!プンスカ(`-´#)となるのは、ありがちなことかもしれません。そのごほうびこそが、全人類にとっての希望の光なのですが。小さい子供にとっては、特に兄弟のいる子にとっては、この父親の対応は腹立たしく感じられるでしょうね。
このたとえ話の父親は、ムスッと不機嫌になった長男に対して、怒りもせず、あれこれとなだめてやります。おまえはずーっと私といっしょにいるじゃないか、私のものは全部おまえのものじゃないか…。弟息子が悔い改めてやっと手にしたものを、兄息子はずーっと持っていたわけです。それが正しくわかるようになるまでは、子供によってはしばらく年月がかかるかと思いますが、ゆっくり見守っていきましょう。その間も神さまが、ホラこれもな… あれもな… あげただろ? となだめてくださるでしょう。

[2] 「豚のエサ」という言葉から、“まずくて食えたもんじゃない”食物をイメージしてしまいがちですが、イナゴマメはほんのりと甘く、人間も食用にできるものです。放蕩息子は、「豚でさえこんなおいしいものを食べられるのに、自分は豚以下だ…」と嘆いたのです。
イナゴマメは、エジプトや中近東では古代から甘味料として用いられていたそうで、イスラエルでは今でも祭りの一つ「トゥ・ビシュヴァット(樹木の新年)」に、アーモンドやレーズンなどとともに食べる習慣があります。日本でも購入可。「キャロブ」で検索してみてください。粉末状のものはココアのようにして飲むこともできますし、お菓子に加工されたものも売っています。教会学校で生徒たちと味見してみてはいかがでしょうか。
西南学院大学聖書植物園 〜植物一覧・検索「イナゴマメ」
《 [carob](イナゴマメ)で画像検索》

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