(51) 良いサマリヤ人

ある時、律法学者の一人がイエスに質問しました。「何をしたら永遠のいのちをいただけるでしょうか」。イエスは言われます。「律法には何と書いてありますか?」

☆「私の隣人とは、だれのことですか。」(ルカ 10:29)

イエスの問いは当然ですね。質問した男は律法の専門家。人に聞かなくても、よーく知っているはずです。はたしてアッサリと答えています。「『心と思いと力と知性を尽くして神を愛せよ』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります」。イエスのお答は簡単です。「それを実行しなさい」。

そもそも彼は、回答を聞きたかったわけではなく、議論をふっかけてイエスをやりこめたかっただけなのでしょう。そこで引き下がるわけにもいかず、次の質問をひねり出します。じ、じゃあ私の隣人て、誰のことですかっ!?

傷ついた人の隣人になったのはだれ?

ここでイエスは彼に、たとえ話をひとつ聞かせました。「ある人が、山道で強盗に襲われた。強盗はその人の着物を奪い、半殺しにして逃げた。そこに祭司がやって来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。次にやって来たレビ人も、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人がそこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、傷の手当てをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『世話してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』。この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

律法学者は…「その人に… あわれみをかけてやった人です…」。イエスは言われます。「あなたも同じようにしなさい。」

☆自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。(ルカ 6:31)

たとえ話とは言え、ユダヤ人を助けるのが祭司でもレビ人(祭司に仕える人々)でもなく、犬猿の仲のサマリヤ人[1]とは…。質問の男は“サマリヤ”と口にするのも悔しくてできなかったのでしょうね。彼にとって、隣人=自分自身のように愛せる人とは、せいぜい同族のユダヤ人か、もしかしたら身内だけ…だったかも!?

しかしイエスがおっしゃったのは、たとえ相手が仇でも助けなさい…です。そんなことができるものでしょうか? できるんです。なぜなら“愛する”とは、“相手を大好きになること”ではなく、“誰かのために自分の力を使おうと決意すること”だからです。感情と意志は別のもの。相手を憎んだままでも、助けようと決意することができるのです。

実際、多くの人がこのような行動をしています。クリスチャンであろうがなかろうが。“神に似せて”造られた人間は、おそらくそうできるように造られているのでしょう。ただクリスチャンは最善の手法を知っています。誰かを助ける時に、神さま、私は何をしたら良いですか?と問うことです。あとは、思いついたことを何でもしてください。あなたの手足は、イエスさまが動かしてくださいます。

「あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、
また何も当てにしないで貸してやれ。
そうすれば受ける報いは大きく、
あなたがたはいと高き者の子となるであろう。」

(口語訳聖書 ルカ 6:35)

参考

[1] BC722年、北イスラエル王国がアッシリヤ帝国に滅ぼされた時、アッシリヤが異教徒をサマリヤに植民させたため、その地方のユダヤ人は、民族的にも宗教的にも、異教徒と混交してしまいました。その後サマリヤ人は、ユダヤ人にとって唯一の聖地であるエルサレム神殿に対抗し、自分たちでゲリジム山に独自の神殿を作りました。この時点でユダヤ人とサマリヤ人は完全に決裂してしまい、言わば仇同士となったわけです。
ユダヤ人とサマリヤ人の仲違いっぷりは、徹底していたようです。口もきかない。近づかない。ユダヤ人はサマリヤの土地に足を踏み入れることさえしませんでした。ガリラヤ地方からエルサレムに上るにはサマリヤを突っ切って行くのが最短距離ですが、それをしたくないがために、わざわざヨルダン川を渡り、川沿いを南下する遠回りルートをとったほどでした。

ぬりえ

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