イエスさまはよみがえられた

なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。
(ルカ 24:5–6)


私たち人間は、この世に生きている限り、どこまでいっても不完全な者です。そもそもからだが不完全です。病気になったりケガをしたりし、いつかは消えてしまいます。心も同じです。悲しみ、恐れ、また人を憎んだり、実際に人を言葉や暴力で傷つけたりします。人間の親でさえ、わが子がそんな状態だったら、泣かずにはいられません。自分が代わりになりたい、代わりに罰してほしいと思う。まして“愛そのもの”の神さまなら、なおさらでしょう。

だから神さまは、 “身代わり”を用意してくださいました。まことのわが子を、私たちの代わりに十字架にかけて滅びさせたのです。その姿をまず人間たちに見せ、それから三日目に、なんと滅びたはずの御子をよみがえらせるというびっくり仰天をお見せになりました。そしてそれは、この神の御子イエスさまについていけば、私たち人間も同じようによみがえらせてくださるという約束のしるしだったのです!

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、
死人の中からよみがえったのである。

(口語訳聖書 Ⅰコリント 15:20)

信じる者になりなさい
地上での姿とそんなに違わない?
少なくとも誰だかはすぐわかるみたいですね。

よみがえった自分の姿。どんな感じなのか今は想像するしかないですが、聖書の中にいくつかのヒントはあります。

①穀物の種を蒔いた時のようすに似ている

 死者の復活もこれと同じです。
 朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、…
 弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、…
           (Ⅰコリント 15:42–43)

種を蒔くと、種そのものは腐ってしまいますが、その中から芽が出てくる。新しい命は、強く、腐らない。

朽ちないものによみがえる
蒔いたタネは腐ってしまうけれど そこから新しい命が…

②この世で着ている住まいを脱いで、天の住まいを着る感じ

 確かにこの幕屋の中にいる間は、
 私たちは重荷を負って、うめいています。
 それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、
 かえって天からの住まいを着たいからです。
 そのことによって、死ぬべきものがいのちに
 のまれてしまうためにです。 
           (Ⅱコリント 5:4)

“住まい”を脱ぐ/着るというのはヘンな表現ですが、いずれにしても、この世のからだを脱いで、新しい別のからだを着せていただくということのようです。

天からの住まいを着る
注)これはイメージです。実際は我々のイメージを遥かに超えているでしょう!

③よみがえられたキリストと同じような者になる

 私たちは、今すでに神の子どもです。
 後の状態はまだ明らかにされていません。
 しかし、キリストが現れたなら、私たちは
 キリストに似た者となることがわかっています。
           (Ⅰヨハネの手紙 3:2)

まだ人類にハッキリとは示されていないけれど、よみがえられたイエスさまの姿がモデルだよ、ということですね。

…と、ここまではすべての人にとって同じです。

 アダムにあってすべての人が死んでいるように、
 キリストによってすべての人が生かされるからです。
           (Ⅰコリント 15:22)

ただ。すべての人が神の国に入れるわけではありません。
「キリストなんて知るもんか!( `-´)」と言った人は入れないようです。ですが、誰が入れて、誰が入れないかは、やっぱり人間にはわからないのです。イエスさまのことを知らないまま死んだ人だっておおぜいいます。神さまは、その人々も愛しておられます。その人々を救うのは神さまがお考えになることで、私たちが心配する必要はありません。私たちはただ、イエスさまが手をさしのべてくださったら、その手にすがってついていけばいいのです。

すべてを新しくする方
新しいからだをありがとうございます イエスさま!

ぬりえ

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