神はいるのか いないのか

「イースター(復活祭)」というのは、イエスさまが十字架にかけられてから三日目によみがえられたことをお祝いする日です。クリスチャンにとっては、クリスマスと同じように重要な日ですね。

☆陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか(イザヤ 29:16)

神はいるのか、いないのか。イエスが神の子だというのは本当か。死人が3日目に生き返ることなどありうるのか。この論争は、大昔から、世界中でくり返されてきました。今でもやってますね。人類はいまだに、神がいるかいないかどちらも証明できずにいます。そして、それはおそらく、永遠にできないかもしれません。

この論点はつまり、私たち人間を“創造した”者がいるのか、それともわれわれは“偶然に”できただけなのか、ということです。では、創造者とはコレだ!と提示できたとしましょう。しかしそれは、人間が研究素材として取り扱える、人間以下のものということになってしまい、すでに神とは言えません。いや、偶然の結果だ!と納得させるには、タイムマシンで宇宙の始まりまで戻り、そこから偶然が続いていく様子をもう一度見せるしかないからです。

☆信じない者にならないで、信じる者になりなさい(ヨハネ 20:27)

信じる者になりなさい
復活の主の手には釘の跡 額にはいばらの棘の跡

世界の人口の約1/3がキリスト教徒だと言われています。彼らは皆、科学的な証明がされないまま、キリストを信じているわけです。なぜそんな“賭け”ができるのか? 実はこの賭けは、絶対に損をしないようになっているのです。

人間は、自分が信じるものに支配されるようにできています。金が一番大事なら、金もうけのことばかり考えます。地位が大事なら、地位を守るために何でもします。クリスチャンなら、キリストの言葉に支配されます。自分が造られた目的を理解する。神を愛するように人を愛する。人生の意味がわかるだけでなく、人々に喜ばれ、感謝されることも多くなります。もしも神がおらず、死後はただの“無”になったとしても、満足して人生を終えられることに変わりはありません。

もしかして死後に平安はなく、大変な労苦が待っているかもしれません。でもそれだったらこの世にいた時と同じです。ひとつずつ乗り越えては、その先に見える希望に向かって進むだけです。

そして、もしも本当に、神さまがおられたら。…人生丸もうけでしょ(笑)

ただこの“お得感”は、クリスチャンになってからわかってくることです。実際彼らに聞いてみれば「お得だから、キリストを信じる道を選んだ」などとは誰も言いません。もしそうなら、それはキリスト教徒でなく「自分教徒」です。多くのクリスチャンはこう証言します。「神さまに呼ばれたので」と。ある時ドアをノックされたので、開けてみたらイエスさまがいらした、と。クリスチャンになってみると「神がいるかいないか」という論争にあまり意味はなく、ただこのような違いがあるだけだとわかります。

「その時、ドアを開けたのか 開けなかったのか」

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。

(口語訳聖書 ヨハネ 20:27)

ぬりえ

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