(26) エゼキエル書

エゼキエルは、エルサレムが完全に滅ぼされる10年前、ユダ王国のヨヤキン王たちとともにバビロンに連れて行かれ、その後約20年預言活動をしました。

☆あなたがたのうちに新しい霊を授ける(エゼキエル 36:26)

この書は、年代順に並べられ、日付けまで書かれて、まるで日記のようですが、内容の多くは“神が見せてくださった幻のようなもの”の描写です。たとえば「主の霊によって、私は谷間に連れ出された。そこには“干からびた骨”がいっぱい」… そこでエゼキエルが主に命じられたとおり骨に向かって預言すると、たちまち骨はカタカタと集まり、くっつき、肉や皮膚でパーッとおおわれたかと思うと、息が吹き込まれてみんな生き返った…。ひー。ホラー映画みたい(>_<;) しかし、その幻が何を意味するか、主は解き明かしてくださいます。それは、ボロボロに枯れ果てたイスラエルを、神はもう一度立ち上がらせてくださる、というものでした。カサカサに干からびてしまった骨が、みずみずしい生命に戻っていくという預言。それは捕われの民に、恵みの雨を浴びたような思いをもたらしたにちがいありません。

わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、…
わたしは新しい心をあなたがたに与え、
新しい霊をあなたがたの内に授け、

(口語訳聖書 エゼキエル 36:25–26)

☆わたしが与える水は、その人のうちで泉となり(ヨハネ 4:14)

サマリヤの女
イエスさまはサマリヤ人の女に話しかけました

新約聖書 ヨハネの福音書4章にも、これと似たようなイメージを抱かせる場面があります。サマリヤ人は、もともとユダヤ人と先祖は同じ。でもサマリヤ人が異教にそまったとして、当時ユダヤ人とは断絶状態でした。口をきくどころか、ユダヤ人がサマリヤ地方を通ることさえありえなかったようです。

ところが主イエスは、弟子たちを連れてサマリヤを通り、ある井戸のそばでひと休みされました。そこへ水をくみに来た一人の女。水くみに来るような時間ではありません。人に会いたくない、うしろめたい生活をしているのか。イエスさまは彼女に「水をください」と話しかけます。おどろく彼女に、つづけて語りかけられます。井戸の水を飲んでも、すぐにまたかわく。でもわたしが与える水を飲む者は、決してかわかない…。そして彼女の、うしろめたい生活のわけをすべて言い当ててしまいます。

女は、目の前の方を救い主と直感したのでしょう。水がめを放り出して町にかけもどると、人々に呼びかけました。「みんな、見にきて! あの方がきっとメシヤ(救い主)よ!」 この女の言葉により、おおぜいの人々がイエスを信じた。その後2日間サマリヤにとどまってくださったイエスに直接会い、さらに多くの人々が信じた… と書かれています。

のどがかわいた時、一杯の水を飲むと、生き返るような気持ちになるでしょう? 体だけでなく、魂も同じです。きよい水を飲まずにいれば、いつか枯れ果ててしまいます。イエスさまは、そんな死んだ魂に、溢れるほどの生命の水を注いでくださる方です。その水〈神さまのみことば〉を飲めば、私たちは毎日、新しい力を得ることができるのです。

ぬりえ

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