静かな夜のゲツセマネ。オリーブの繁る庭園で、イエスは最後のお祈りをなさったあともまだ、弟子たちと話しておられます。しかし、その時は近づいていました…
☆見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。(マタイ 26:47)
「あなたがしようとしていることをしなさい」とイエスに言われ、過越の食事の部屋から出て行ったユダ。彼が園に現れたのです。弟子であれば、ゲツセマネの場所はよく知っています。食事のあとイエスは、自分以外の十一人の弟子だけを連れ、群衆に追われない園に行かれるはずだとユダは見当をつけていたのでしょう。
そして彼は、一人ではありませんでした。大集団を引き連れていました。祭司長や律法学者、長老たちから差し向けられた大勢の役人たち。それに一隊のローマ兵士の群れ。彼らはまたそれぞれともしびとたいまつ、剣や棒を手にしていました。たった12人をつかまえるために。彼らにとっては、イエスは革命を指揮する危険な人物です。しかもこれまで、捕らえたり処罰しようとしたりしても、すべて失敗に終わってきたのです。おそらく、ものすごく恐れていたのだと思われます。
その集団に先立って歩いていたユダが、イエスに近づいてきました。「先生。お元気で」と言いながらイエスに口づけしました。それは前もって決めておいた合図だったのです。私が口づけをする相手がイエスだ! 暗闇で見誤るな!しかしそんなユダになおも、イエスはこのように呼びかけられたのでした。「友よ。」… 友よ、あなたは何をしに来ましたか…
最後の最後まで、ユダには踏みとどまる機会が与えられていたのです。
☆弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。(マタイ 26:56)
イエスはまったくひるむことなく、大集団に問いかけられます。「だれを捜すのか?」武装集団が答えます。「ナザレのイエス!」…イエスはおっしゃいました。「それはわたしです(エゴー・エイミ[1])」。するとそれを聞いた武装集団の方があとずさりし、みんな腰が抜けて尻餅をついたと言うのです。イエスはもう一度問われます。だれを捜すのか?… 「ナ、ナザレのイエス」
「わたしがそれであると、言ったではないか。
わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」(口語訳聖書 ヨハネ 18:8)
それは「あなたが私に下さった者のうち、ただの一人をも失いませんでした」とイエスが言われた言葉が実現するためであった、とヨハネは記しています。イエスは最初から弟子たちを逃し、生き延びさせるおつもりだったのです。
この時まだ、ペテロは武力で対抗しようとしています。剣で大祭司のしもべの耳を切り落としたのです。が、イエスは「やめなさい。父が下さった杯をどうして飲まずにいられよう」としもべの耳に触れ、おいやしになりました。私が父に願えば、御使いの軍団を送ってくださるだろう。だがそれでは、預言者たちの書は実現しないのだ…
それを聞くと弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ出してしまいました。イエスは父なる神に示された通り、「暗闇の力」に身を委ねられました。本来ならば、私たち人間が捕らわれ、滅ぼされてしまうはずの暗黒の世界に。