(72) ゲツセマネの祈り

過越の食事を終え、弟子たちへの最後の教えと長い祈りを終えられると、イエスは外に出て行かれました。もちろん弟子たちも、そのあとに従って行きます。

☆目をさまして、祈っていなさい。(マタイ 26:41)

ゲツセマネ
現代のゲツセマネの園(撮影@2000年5月)

イエスが向かわれた先はゲツセマネと呼ばれる庭園でした。オリーブ山の麓にあり、オリーブの木が植えられていて、その名もアラム語で“オリーブの油搾り”という意味です。エルサレムから近く、しかし人の少ないゲツセマネは、いつもイエスと弟子たちが祈りの場として使っていました。夜中にも何度も来ていたことでしょう。

そこでイエスは弟子たちにおっしゃいました。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい。」それから、一番弟子のペテロ、ヤコブとヨハネの兄弟だけを連れて少し離れた場所に行かれました。この時すでに、イエスはふるえて泣いていらしたかもしれません。わたしは悲しみのあまり死ぬほどです…と告白しておられます。

イエスは三人の弟子に、ここにいなさい、ここを離れないで、誘惑に陥らないように、目をさまして、わたしと一緒に祈っていなさい… そう言いおいてご自分だけ少し先に進んで行き、地面にひれ伏して祈り始められました。

☆あなたのみこころのままを、なさってください。(マルコ 14:36)

「わが父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうかこの杯をわたしから過ぎ去らせてください!」

「杯を過ぎ去らせてください」とは「十字架の苦難を受けずにすむようにしてください」という意味です。死刑は確かに過酷な体験です。が、ご自分は“死んでも三日目によみがえる” とご存じなのに、なぜこんなにも苦しまれるのでしょうか? それは肉の体が死ぬことへの恐怖ではなく、全人類の罪を代わりに背負って父なる神との関係を断ち切られる、神に見捨てられることへの恐れだったのです。

ところがイエスの祈りはこう続けられました。

「しかし、わたしの思いではなく、
みこころのままになさってください」

(口語訳聖書 マルコ 14:36)

自分が願えば父はお聞き届けくださると確信を持っていらしたはずです。現にこの “汗が血のように滴り落ちる”ほどの祈りの間、神さまは御使いを送り、御子イエスを力づけていらっしゃいます(ルカ 22:43)。それでもイエスは、神のみこころの方を選ぼうとなさったのです。

この絶叫のような祈りは、弟子たちの耳にも届いていたでしょう。後にその内容を証言しているのですから。ところが彼らときたらなんと、それを聞きながら寝てしまいました…。彼らも働き続けでクタクタだったには違いありません。ですが、弟子たちの所に戻っていらしたイエスは、三人が寝こけているのを見つけるのです。それも三度も…
三回とも「起きて祈っていなさい」と告げてあったのに。

イエスがその時どれほどの孤独を感じておられたか、察するに余りあります。それでも主イエスはそんな弱い人間たちを救うために、ご自分を犠牲にする方を選んでくださいました。本当は私たち人間が架けられるべき十字架への道を、歩み始められたのでした。

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