イエスさまの時はついにやってきました。大工としての日々は終わり、神の御子である本来の姿をもって、人々を導き救う活動に入ってゆかれるのです。
☆「これは、わたしの愛する子」(マタイ 3:17)
イエスさまは、ガリラヤからヨルダンのほとりに降りていらっしゃいました。
《[the Jordan River](ヨルダン川)で画像検索》
ヨハネからバプテスマを受けるためです。
しかしバプテスマというのは、そもそも“罪を洗いきよめる”儀式です。それまでの生活の中でおかした過ちを悔い改め、神に立ち返る…という意味を持っています。神の子として生まれ、過ちをおかしたことがない、つまり罪を持たない方が、受けるべきものではありません。当然ながらヨハネは、自分がイエスさまにバプテスマを授けるなどとんでもないと断ります。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに…」と。
ところがイエスさまは答えられました。「今はそうさせてもらいたい。」
そのお言葉を聞いて、ヨハネは承知しました。ヨルダン川で、主イエスにバプテスマを授けたのです。バプテスマを受けたイエスさまは、水から上がられるとお祈りをなさいました。
すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように
自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
また天から声があって言った、
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。(口語訳聖書 マタイ 3:16–17)
この、天から下った聖霊を、ヨハネははっきりと目撃しました。彼は、自分が神さまから遣わされた時、すでに告げられていたのです。聖霊がある方の上に下るのがあなたに見えたなら、その方こそ救い主である、と。ヨハネは人々に証言します。「わたしはそれを見たのです。この方が、神の御子です。」
☆神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました(コリントⅡ 5:21)
罪をおかしたことのない方が、なぜ罪をきよめる儀式を受けなくてはならなかったのでしょうか。ヨハネに予告されていた内容から言っても、天から降ってきた祝福の言葉から考えても、それは父なる神が御子イエスに求めていらしたことです。
そう、この時イエスさまは、私たち全人類の罪を、身代わりとして負ってくださったのでした。私たちは、自分の悪いところを、自分ではどうすることもできないのです。罪とは、法律を犯すことだけではありません。人を恨んだり、妬んだり、人の気持ちを傷つけたり。失敗をごまかそうとしたり、実際にごまかしたり。明確な悪意を持つことさえあります。そして、そんな罪を抱えたままでいると、私たちの心はスッキリ晴れるということがありません。ただ「人間てのは、人生ってのはこういうものなんだ…」と、重い気持ちをムリヤリねじふせて生きているのです。
しかし。そんな重い心から、完全に解き放たれる手段が私たちに与えられました。イエスさまにすがりつけば良いのです。助けてください! 私を罪から解放してください!! イエスさまは、あなたの重荷をひょいとかついでくださるでしょう。その瞬間あなたは、それまで自分の罪を運ぶのに、どれだけ膨大なエネルギーを費やしていたかがわかるでしょう。