(53) 生まれつきの盲人のいやし

宣教と同時に、イエスさまは病気の人、障害のある人を次々に治していかれます。それもわざわざ「安息日」に…。律法学者が「医療行為をしちゃいかん!」と言う日に。

☆神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ 9:3)

生まれつきの盲人のいやし
男は生まれた時から目が見えませんでした

その時路上にいたのは、生まれつき目の見えない男でした。当時のイスラエルで障害を持って生まれれば、道ばたにすわって物乞いをするしか生きる道はなかったのです。彼を見た弟子たちは、イエスに問います。彼が盲目に生まれついたのは、だれのせいですか… この人自身ですか? それとも彼の両親が罪を犯したからですか?

イエスのお答えは「両親でも、この人が罪を犯したからでもありません。神のわざがこの人に現われるためです」。それから地面につばをし、こねて泥を作られると、見えない彼の目にその泥を塗って言われました。「シロアムの池に行って洗いなさい」。まわりで見ていた人々に手伝ってもらったのでしょうか、男はシロアムの池まで辿り着き、その水で泥を洗い落としました。すると… なんと! 目が見えるようになったのです!

この時の彼に対するイエスのいやし方は、なかなか手がこんでいます。指一本ふれることなく、お言葉だけで離れた所にいる人の病気を治すことさえおできになるのに…。見えないとは言え、まぶたに泥なんかを塗られたら、彼は固く目を閉じていなければならず、池まで行くにもひと苦労したでしょう。“それでも主に言われた通りに行動する”ことが、彼にとって必要な作業だったのかもしれません。私たちも、なんでこんなことしなきゃならないのかな?と思うような指示を神さまから与えられたとしても、まずはその通りに、神さまの命令通りに、していきましょう。

☆私は盲目であったのに、今は見えるということです。(ヨハネ 9:25)

この“事件”に、町中は大騒ぎになりました。ウソだろ!? 別人だよ! いや、あいつだ!! 盲目で、物乞いしてた男! なんで見えている!? …彼は答えます。「イエスという方のおっしゃった通りにしたら、見えるようになりました。」

あの男だ!別人だ!で人々は分裂していましたが、連れて来られた彼を見た宗教的指導者パリサイ人たちは、別の点で分裂しました。彼らにはそれがイエスのしわざだとすぐにわかったのです。「おまえの目をあけたのは罪人だ。安息日の規定を守らぬ者は神から出た者ではない。[1]」…ところが一部の人々が反論しました。「罪人にこんな奇蹟が行なえるか…?」

どうしてもイエスを抹殺したいパリサイ人は、焦ってしつこく男を問いつめます。
「どうして見えるようになった!」
「イエスという方が治してくださいました。」
「その男は何者だと言うのか!」
「あの方は預言者だと思います。」
「私たちはその男が罪人だと知っている!」…

「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。
ただ一つのことだけ知っています。
わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。

(口語訳聖書 ヨハネ 9:25)

生まれた時から社会の片隅に追いやられてきた彼にも、今ははっきりとわかっていました。神から出たお方でなければ、こんな奇蹟はできません… そんなこともおわかりにならないとは…という彼の言葉に、パリサイ人たちの怒りが爆発しました。彼はユダヤ人社会から追放されてしまいました。

町から追い出された彼を、イエスが探し出して、お聞きになりました。私を信じますか… 「主よ、信じます!」。体の目が見えるようになったのと同時に、彼は「心の目」も見えるようになったのでした。

参考

[1] イスラエルはたびたび大国に屈して来ました。この時代もローマ帝国に支配されており、なんとか独立を勝ち取ろうと必死でした。ユダヤ人には、かつて祖国を失ったのは、“安息日律法を守らなかったせいだ”という後悔が染み付いていたのです(エゼキエル 20:10–26)。パリサイ人にとっては、「自分たちは律法を固く守っている」→「だが守らない人間がいる」→「他国に負けるのはそいつのせいだ」→「国を守るためには、そいつを追い出さなくてはならない!」という理屈だったのでしょう。ですがイエスさまは、安息日とは「人をさばく日」ではなく、「人に安息を与える日」だと教えようとなさっていました。だからあえて安息日を選ぶようにしていやし続けておられたのです。

ぬりえ

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