カナで初めての奇蹟を起こされたイエスさまは、その後、母と兄弟、弟子たちとともにカペナウムに寄られ、それから過越の祭りのためにエルサレムに上って行かれました。
☆父の家を商売の家としてはならない(ヨハネ 2:16)
エルサレム神殿の境内は、祭りにやってきた参拝者たちでごった返していました。境内には、いけにえとしてささげるための、傷のない牛や羊やハトを売る屋台がずらりと並んでいます。神殿に納めるコインも、決められたものでなければならないので、ふつうのお金を神殿用に両替する商人も店を出しています。
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宮に入ってこられたイエスは、そのうるさい境内をごらんになりました。そして、なわでムチを作ったかと思うと、それを使って、売られている動物たちを宮から追い出し、両替人の金をまきちらし、その台をひっくり返しました。そしておっしゃったのです。「わたしの父の家を商売の家としてはならない!」
商人たちも、その場にいたおおぜいの人々も、おそらく弟子たちも、みな呆然としてしまったのでしょう。祭司かあるいは神殿警察(宮を守っていた)の人だかが、このあとイエスの行動のわけを問いただしていますが、乱暴者!とつかまえたりはしていません。イエスさまは、おだやかな方でしたけれども、悪や罪に対してはたいへん強い態度を示されました。そのお姿は、力と権威に満ちていたものと思われます。
☆この神殿をこわしてみなさい(ヨハネ 2:19)
イエスさまにつっかかってきた人々は、こう言いました。このようなことをするからには、あなたは私たちにどんなしるしを見せてくれるのか。つまり、こんなことをしても良い方であると証明するものは!?という意味ですね。
その糾弾のことばへのイエスのお答えは、こういうものでした。
「この神殿をこわしたら、
わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。(口語訳聖書 ヨハネ 2:19)
“この神殿”とは、そこにある、46年かけて建てられた宮の建物のことではなく、イエスご自身のからだを指していました。その“神殿”は確かに、こわされたあと三日でよみがえります。旧約聖書マラキ書には「神が終わりの日に宮をきよめられる」(マラキ3章)と書いてあるのです。神殿にいるような人なら、それを知らないはずはない。でもその人たちには、イエスさまがどなたなのかがわかりませんでした。
しかし弟子たちはこれを見て、ある聖書のことばを思い出しました。「神の家に対する情熱が私を食い尽くす」(詩篇69:9参照)というダビデの詩です。もちろんこの時にはまだ、師イエスのことばや行いの本当の意味は、弟子たちにもわかりはしませんでした。でも彼らはこの日のことをずっと覚えていました。そしてやがて主の復活を目撃した時、弟子たちはこのできごとを思い出し、聖書とイエスのことばとを信じたのでした。
同じことばを聞き、同じできごとを見ても、その意味を知り、真理にたどりつける人と、そうでない人がいる。頭がいいからとか、勉強したからわかるというものではありません。「真理に行き着きたい」「本当の神を知りたい」と願っていると、わかるようにしていただけるのです。