イエスが起こす奇跡の数々に、人々は驚き、喜び、熱狂していきます。それとともに、律法学者たちはますますイエスを葬り去らねば!と考えるようになりました。
☆人の子は、安息日にも主です。(マルコ 2:28)
その日は安息日でした。イエスは弟子たちを連れ、麦畑を通っておられました。
《[Israel, grainfield](イスラエル 麦畑)で画像検索》
その時、あまりにおなかがすいていた弟子たちが、麦の穂をつみ、手でもみ出して食べ始めたのです。すると、それを見つけたパリサイ人たち[1]がイエスを責めました。安息日には収穫や脱穀をしてはいけないことになっているのに、これはどういうわけですかなっっ!!
歩きながら、生の麦をちょいちょいとつまんで口に入れた程度です。畑一反刈り取ろうとしたわけでもあるまいし。パリサイ人たちは、とにかくイエスを責める、訴える理由をさがしていたのでした。[2]
《実際に生麦を皆で食べてみる(一人何粒かずつで充分)》
しかしイエスは、いつものように「聖書に書いてある」ことを示して、彼らに返事をなさいました。ダビデと供の者たちがひもじかったとき、祭司以外は食べてはいけない(レビ 24:9)とされている神殿のパンを食べた(Ⅰサムエル21章)とあるのを読まなかったのですか… 神さまの「あわれみを好み、いけにえは好まない」(ホセア 6:6)というおことばの意味がわからないのですか?…
そしてこうもおっしゃいました。“宮の祭司たちが安息日の神聖を冒しても罪にはならない、とあります(祭司は安息日にも働いていた@民数記 28:9–10)。わたしは宮よりも大きな者。安息日の主です”…
つまり、ご自分が、父なる神さまにすべての権威をゆだねられてやってきた者=律法をも超えるメシヤである、とあらためて宣言なさったのです。
☆安息日にしてよいのは…(マルコ 3:4)
その後、また別の安息日。イエスは会堂で教えていらっしゃいました。聴いている人々の中に、右手が動かなくなっている男がいました。パリサイ人たちは、イエスの様子をじっと見ていました。もしも安息日にイエスが彼の手を治したら、律法違反で訴えることができるから!
イエスはその男に、真ん中に出て来るようにと言います。パリサイ人の一人がイエスに質問します。「安息日に病人をいやしてもいいのですか?」 イエスのお答えは…
「安息日に善を行うのと悪を行うのと、
命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。(口語訳聖書 ルカ 6:9)
パリサイ人たちは… みな黙り込んで返事をしませんでした。どうしても神さまのみこころをわかろうとしない彼らを、イエスは嘆きと怒りのこもった目で見回すと、男に「手を伸ばしなさい」とおっしゃいました。
男がそのとおりにすると、右手はたちまち元どおりになったのでした。しかしこの時以来、パリサイ人たちは分別を失ってしまいました。ただひとつ“イエスを死刑にすること”だけが我らの目的!と考えるようになっていったのです。
神さまは、私たちのために「安息する日」を造ってくださいました。今の日本で言うなら日曜日。仕事や学校を休み、神さまのことを一番に考える日です。でもそれは、人間のことは考えなくてもいいという意味ではありません。安息日は、神さまのお恵みに感謝し、みんなで喜び祝うためにあります。困っている人がいたら助けましょう。泣いている人がいたらなぐさめましょう。神さまを一番に考えると、人にも良いことができるようになりますよ。
参考
[1] 弟子が麦を摘んだエピソードは、マタイ/マルコ/ルカの福音書にありますが、律法学者たちの呼称として、いずれも「パリサイ人/ファリサイ派の人々」が使われています。子供に語るのに、「律法学者」と「パリサイ人」を厳密に区別する必要はないように思いますが、混乱させないために、生徒の年齢に合わせた説明をしておいたらいかがでしょうか。
パリサイ人とは、「パリサイという国の人」という意味ではなく、「パリサイ派に属する律法学者」のことです。律法学者の中でも、特に厳格に律法を守ることを目指した一派。「パリサイ」はヘブル語で“分離された人々”の意だそうで、「自分たちは、他のユルい連中とは違うのである!」という主張を感じますね。
[2] 今の日本の私たちから見ると、本末転倒、ただの律法違反者取締り委員かいっっ!?という感じですが、当時の彼らは、本当に命がけで律法を守っていたようです。
立川福音自由教会 高橋秀典師礼拝メッセージ@2011.5.8