「祈り」というのがどういうものか、子供たちはなかなか正しく理解できません。折りに触れて教えておくのが良いと思います。
お祈りが苦手、お祈りなんて好きじゃない、したくない、できない…と言う子供は案外多いものです。「お祈り」とは、人前で朗々と詠唱したり、○○さんの病気をお癒しください…△△さんが教会に来ますように…□□くんが合格するように…と周囲の全員のために延々お願いし続けたりするものだと思っているからです。自分の心の中の思いは人にべらべら話して聞かせたいようなものばかりであるはずがないし、子供はそんなに他者の苦難に思いを馳せることなどできません。そういうものなら「できない」と言うのは当然のことです。
私が常々子供たちに伝えている「祈りのしかた」は、たったひとつ。どんなに幼い子供にも同じやり方を教えています。毎日、朝起きてから夜寝るまで、人はずっと何かしらを“考えて”暮らしているでしょう? 人生とは「絶え間なく選択し続けること」ですから。朝ゴハンのめだまやきにおしょうゆかけようか塩にしようか。今日は誰と何をして遊ぼうか。自転車で行こうか歩いて行こうか、学校休みたいけど行かないとまずいか、ケンカした○○くんにあやまろうか無視してやろうか…。そうやって考えごとする時、アタマにいちいち「神さま〜」とつけなさい、と。一人で悶々と考えていないで、神さまに呼びかけながら迷いなさい。それが「神さまに祈る」ということですよ、と。塩かしょうゆかどっちがいいですかね〜、神さまケチャップなんてのもありですよね♪ 学校行きたくないんですよ、だって神さま今日は発表させられる日だから…。○○くんホントやなやつ、神さま見てたでしょう、ボクのことバカにしたんだっ!
どんなことでも、怒りでも、恨みでも、洗いざらい、神さまには言っても大丈夫。神さまになら、神さまにだけは、何を言っても大丈夫。全部を受けとめて、全部に一番良い答をくださる力のある方だから。だって神さまは、あなたのことが好きで好きで、可愛くて可愛くて、大切で、幸せにしたくて、しようがないんだから!(ヤコブ4:5 他)
ダビデは「神さま、早く敵を打ち倒してください。悪者に恥をかかせてください」とたびたび祈っていますが(詩篇あちこち)、神さまはそんな祈りはダメと叱ることもなく、ちゃんとダビデを勝利させてくださっています。エリヤが、神よりも、残虐な王妃イゼベルを恐れて「主よ、もう死にたい…」と泣きついた時、神さまが与えてくださったものは、充分な休息に、水とお菓子(Ⅰ列王19)。モーセに至っては、偶像礼拝をしたイスラエルの民を、許さん!滅ぼす!と怒りを燃やされる神に、「おやめください、そんなことをしたらエジプト人に嘲笑されますよ!」って… 祈りというより、ほとんど恫喝です。が、神さまはそれを聞いて、なんと「わざわいを思い直された」(出エジプト32:14)というのです。
私たちも、心の中のありのままを神さまにさらけ出していいのです。神さまに喜ばれる祈りかどうかは、聖書を読めばある程度の見当はつきますが、最終的にはやっぱり人間には判断ができるものではありません。できないものを無理にやろうとしてうろうろしているより、さっさと「神に近づきなさい」(ヤコブ4:8)。それこそが神さまが待っていらっしゃる、私たちに求めていらっしゃる態度です。そしてそれは、“神さまのお答えを聞く”訓練にもなります。神さまに訴えさえすれば、そのあとどの道を選択してもOK。「どちらの道が正しいか?」と考える必要はありません。どちらを選ぼうが、また「神さま〜、この先もずっと一緒にいてくださいね〜」とやりながら進んで行けばいいのです。