教会学校に来る生徒の話をよく聞く

CS教師が教会学校の分級を担当される場合、メッセージを用意し、その内容がちゃんと理解できたかどうかを確認するための質問、テーマに基づいたアクティビティ(ぬりえや工作)等々、ある程度のプログラムを決めて臨まれていることと思います。

ただ、毎回そのプログラムを消化することに時間を使い果たしてしまい、これで本当に良いのだろうか…と悩む先生も多いようです。
私は、聖書箇所を朗読することと、その内容についてのメッセージは必ず入れますが、そのあとの時間はプログラムに縛られないよう心がけています。伝えたかった内容が正しく理解されたかどうかは、全員に同じ質問をしてわかるものではありません。中には「質問」どころか、「想定される答」「理想的な答」までリストアップしてあるCS教師向けテキストもありますが、聖書の学びはそういった「試験形式(設問に対して正解を求める)」で身につけさせるものとは相入れません。カンのいい生徒だと「先生が喜ぶのはこういう答だよな〜」で回答することさえあります。

聖書の学びで重要なのは、その教えが自分にとっては何をどう意味するのか?を知ることです。私はよく、各生徒の日常生活について話を聞くようにしています。サッカーに情熱を注いでいる子。受験勉強に追われている子。学校での友人関係に悩んでいる子…。こちらからする質問は、主にその状況や経過についてです。

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私「ボランチって何?」 生徒A「僕のポジションの名前です。」
私「どんなことするポジション?」 生徒A「全体の様子見て、あちこちに指示を出すの。」
私「あのワタワタした試合の中で!?」 生徒A「そう。神経集中させて、一瞬先を読む!」
私は言います。その訓練は役に立つ! 信仰にも使える。何か重大なことが起きる前には、神さまは必ず“前ぶれ”を与えてくださる。御使いを送る、預言者を遣わす、イチジクの葉が出たら…夏が来る。試練は突然来たりはしない。周りに注意を払って、何かが起きそうだ…と感じたら、祈って身構えなさい…

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生徒Bは、希望の学校に合格し、「先生、私には○○部と△△部とどっちが合ってると思いますか〜?」とわくわくしていました。が、せっかく入った○○部では、思春期の子の集団ではありがちですが、意見の対立や派閥争い…。教会に来ては、しんどいです(-_-;)とぽそぽそ話してきます。そんな時はこちらからアドバイスめいたことは言わず、ただフンフンと話を聞きます。えー、そうなんだ… で、どうしたの?… うわ〜それは面倒だわ〜…。自分が正しい(神の側にいる)、相手が悪い(サタンの側にいる)などと考えていないことは聞いていればわかります。自分はパウロ派だアポロ派だ…の不毛さについても、繰り返し学んで来た子です。その時の気持ちを吐き出すだけ吐き出すと、いつも最後には自力で考えに整理をつけていきます。これをうまく乗り切れたら、ちょっと成長できるような気がする…とさえ言うのです。

CS教師にとって大事なのは、生徒たちに「教会に来れば、自分の気持ちを聞いてもらえる」と思わせてあげることです。そして、そのあとどうしたらいいか、どうすべきかは、聖書の中に答がある!と指し示してあげれば、聖書の言葉は頭に入っていきます。「祈ってるからね!」と挨拶がわりに言うのはやめて、あなたに関心がある、とても気にしていると態度で伝えましょう。「日曜日に塾やサッカーに行って、教会に来ない」というのを問題視する意見をしばしば耳にします。が、自分が懸命に取り組んでいることを否定的に捉える人々のところに行きたいと思う人間はいません。そこに行けば、どんな思いも悩みも受け止めてもらえると思うから、時間がなくても、礼拝に遅刻してしまっても、駆けつけて来るのです。もちろん、人の思いを100%完全に受け止めてくださるのはイエスさまですが、CS教師としての私は、その“手先”となりたいと考えています。

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