“イエスを亡き者にしたい”祭司長や律法学者たち。しかしそれを実行するには、まずイエスを崇拝している民衆を自分たちの側に引き戻さなくてはなりません。
☆何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。(マタイ 21:23)
民衆は大群衆となってイエスの教えに耳をかたむけています。律法学者たちは、なんとかしてイエスの口を封じようとしました。彼らはイエスに詰め寄ります。「何の権威によってこんなことをしているのか。だれがあなたにそんな権威を授けたのか!」…が、イエスは答えられました。では私からもひとつ質問しましょう。もしもあなたがたが答えられたなら、私もあなたがたの質問に答えましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たか、人から出たか?
律法学者たちは何と答えようか相談を始めます。でも答が出ません。だって「天から来た」と言えば、ではなぜ彼の言葉を信じなかったのかと言われてしまう。と言って、バプテスマのヨハネを“ただの人”だなどと民衆の面前で言えるか!? 民はみな、ヨハネを「偉大なる預言者」だと思っているんだぞ! それこそ石ぶつけられるかもしれん!![1]
「わかりません…」それが彼らの返事でした。なのでイエスもお答えになりました。「では私も話すまい。」
☆イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。(マタイ 21:46)
しかし、次に話されたたとえ話が彼らへの答になっていました。ある人に息子が二人[2]。一人の息子の方に「ぶどう園で働いて来てくれ」と言うと「わかりました」と返事はしたが、行かなかった。もう一人に同じことを言うと「イヤです」と答えたが、あとから反省して働きに行った。父の願い通りにしたのはどちらか? あなたがたは最初の息子と同じだ。口先だけで、神の願いは無視。ヨハネが神の教えを持って来たのに、あなたがたは信じなかった。自分の態度を悔い改めてヨハネを信じた取税人や遊女たちの方が、あなたがたより先に神の国に入るのだ…
もう一つ。ぶどう園の主人が、園を農夫たちに貸し、旅に出た。収穫の時期になり、自分の分を受け取ろうと農夫たちのところにしもべを遣わしたが、彼らはしもべたちを痛めつけた上、何も持たせず送り返した。何人しもべを送ってもダメなので、最後に息子を遣わした。すると彼らは「跡取りだ!あれを殺せばぶどう園は俺たちのものだ!」と息子を殺した。主人は彼らをどうすると思いますか?…「そんな悪党どもは殺して、園を別の農夫たちに貸すでしょう!」と答える律法学者たちに、イエスは言われます。
「あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。
『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。
これは主がなされたことで、
わたしたちの目には不思議に見える』」。(口語訳聖書 マルコ 12:10–11)
見捨てられる石=農夫に殺される息子=イエスこそが救いの礎となる…。やっと律法学者たちは気づきました。悪い農夫とは、自分たちを指しているのだと。そう、神の国はあなたがたから奪われ、別の人々に与えられるでしょう…
彼らは今度こそイエスを捕えようとしましたが、やはりできませんでした。群衆を恐れたからです。神さまから心が離れていると、人の力が恐くなってしまうのです。
参考
[1] イエス・キリストの生涯 (6)バプテスマを授けるヨハネ
[2] 「二人の息子」のどちらが「兄」でどちらが「弟」かは聖書によって違ってしまっていて、神学的には結論の出ていない問題であるようです。いずれにせよ、子供に話して聞かせる時には、「お兄ちゃんの方が悪い子だね」「弟の方がダメだね」のようなイメージを植え付けないことが大事だと思います。このたとえは、“兄弟のうち、どちらが優秀か”という意味で語られたのではないのですから。