(61) エルサレム入城

過越の祭りの六日前。エルサレムに向かうイエスと弟子たちは、いつものようにベタニヤに寄って行かれました。親しい姉弟、マルタとマリヤとラザロがいるところです。

☆この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは…(マタイ 26:12)

ナルドの香油
マリヤは純粋なナルドの香油をイエスの頭に注いだ

そこには夕食が用意され、マルタはいそいそと給仕をしています。先頃、一度は死んだはずが、イエスに生き返らせていただいたラザロは、皆と一緒に食卓についています。そこにマリヤもやってきました。いつもどおりの風景…。

でも、いつもとは少し違うことが起こりました。マリヤは石膏のつぼを持っていて、それを割ると、中味をイエスの頭に注ぎかけたのです。部屋中に広がる芳香。皆すぐにそれが大変高価な純粋のナルド油[1]だとわかりました。マリヤは敬愛するイエスさまの手にも足にも香油をかけ、流れ落ちる香油は自分の髪でぬぐっています。これだけ多量だと数百万円はします。弟子たちは「もったいないことを!」とマリヤを責めてしまいました[2]

しかしイエスは彼らにおっしゃいました。なぜマリヤを責めるのです。彼女はこの香油を私に注ぎ、埋葬の用意をしてくれたのです。世界中、福音が宣べ伝えられる所ではどこででも、この人のした事も語り継がれるでしょう…

確かにその通りになったわけですね。マリヤはもちろん、そうなることなど想像もしなかったでしょう。イエスが「埋葬の用意だ」と言ったのでさえ、何のことだかわからなかったはずです。香油を塗るのは、主賓に対する最高のおもてなしですし、それより何より、ただただ主イエスに、自分の持つ最上のものをおささげしたかったのだと思われます。神さまイエスさまは、私たちのそのような思いを、心から喜んで受け取ってくださるのです。

☆「見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(ヨハネ 12:15)

ろばの子に乗って
戦闘の象徴の馬ではなく 平和の象徴であるろばに乗って

さて、一行はエルサレムに向かって出発します。途中イエスは、二人の弟子を近くの村に使いに出しました。村に入ると、まだ誰も乗ったことのないロバの子がつながれている。それを引いて来なさい…

弟子たちが行ってみると、まさにそのとおり。彼らはロバを連れて来ると、その背に自分たちの上着をかけました。子ロバに乗り、イエスはエルサレムに進んで行かれます。この時、旧約ゼカリヤ書9章9節の預言が成就しました。「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。子ろばに乗って。」

大群衆がイエスを出迎えました。自分たちの上着を、しゅろの枝[3]を、道に敷きつめて。彼らの大賛美が響きます。

「ダビデの子に、ホサナ。
主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
いと高き所に、ホサナ」。

(口語訳聖書 マタイ 21:9)

それは素晴らしい光景だったでしょう。しかし、残念なことに、そこにいる誰も、イエスが“主の御名によって来られ”た本当の意味を理解していませんでした。人々が歓声をもって迎え入れたのは、ローマ帝国から自分たちを解放し、新しい王国を打ち立ててくれる革命家だったのです。だってろばに乗っているではないか! 聖書にあるとおり! 過越の祭りではないか! われらの先祖がエジプトから解放された記念の日! ついにわれらもローマから解放されるのだ!!

エルサレムに近づいた時、イエスは涙を流されました。エルサレムよ、今日おまえが平和の神の訪れを知っていたなら… だがそれに気づかぬおまえは、破滅に向かってゆく…

参考

[1] ナルドの香油は日本でも購入可です。「ナルドの香油 スパイクナード」で検索してみてください。少量なら安く買えるものもありますから、生徒たちにかがせてあげたら良いと思います。マリヤがイエスさまのために使ったのは、比べ物にならないほど上質なものだけど…と説明して。
マリヤが持っていた香油は、おそらく代々その家の娘に受け継がれてゆく家宝のようなものだったのではないかとも言われています(ということは、マルタやラザロも了承した上での、つまり一族からの献上だったかも)。そのつぼの、封印を解いて注ぎ出してもいいところを、一気にかち割ってしまっているわけです。もう最初から、すべてを、惜しみなく、おささげする!というつもりだったのでしょう。

[2] ヨハネの福音書では、マリヤを責め立てたのはイスカリオテのユダであると書かれています(ヨハネ 12:4–5)。ユダは弟子たちの中で経理担当だったのに、「日頃から金を横領していた、盗人だった」とヨハネは非難しています(ヨハネ 12:6)。他の弟子たちも、香油の質や量を見て驚き、「なんてことしてんだー!!」となったのでしょうけれども、彼らが本当に「貧しい人たちへの施しに使えたのに」と考えたのに対して、ユダは「そのまま献品してくれれば、使い込みの穴埋めができたのに!」とでも思ったのでしょう。
城山キリスト教会 関根弘興師礼拝メッセージ@2013.8.11

[3] 紀元前164年のユダ・マカベオスによる、ギリシャからのエルサレム神殿の解放になぞらえて、人々はしゅろの枝を手にしたようです。
「エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。
あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。」(ゼカリヤ 9:9–11)
ユダヤの人々は、それこそ暗唱するほどこれらの聖句になじんでいたはずですが、その意味をまったく取り違えていたのですね。
立川福音自由教会 高橋秀典師礼拝メッセージ@2016.2.28

ぬりえ

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