(39) 五千人の給食

バプテスマのヨハネが斬首されたと聞き、イエスさまはひとり舟を漕ぎ出して行かれました。宣教から戻った使徒たちにも、静かな所で休むようにとおっしゃいましたが…

☆人々はみな、食べて満腹した。(ルカ 9:17)

舟で静かな所へ行こうとするイエスと使徒たちを、群衆が追いかけてきました。本当は、ひとつ仕事を終えたら、静かな所で、神さまとゆっくり語り合う方がいいのです。が、この時のイエスと使徒たちには、そんな時間はまったくありませんでした。しかしそれでもイエスは、“羊飼いのいない羊のような”=人生の苦難に翻弄されている人々を放ってはおけず、むしろ喜んで迎え入れました。使徒たちとともに舟から上がられると、山に登り、人々に神の国のことを教え、彼らの病気をいやされました。

あっと言う間に夕方です。使徒たちはイエスに「もう彼らを解散させて、近くの村で食物でも買うように言ってください」と訴えました。ところがイエスのお返事はとんでもないもので… 「あなたがたが彼らに食物をあげなさい」
…は!? 男だけでも五千人はいますが!? われわれが出かけて行って、彼らに1万食分もの弁当でも買って来いと!? わけがわからず、困惑する使徒たち。ここでアンデレが、少年を連れてきます。この子が、大麦のパン[1]5つと小さい魚を二匹持ってますが… 全然足りないですよね…

五つのパンと二匹の魚
五つのパンと二匹の魚で大群衆が満腹し しかもたっぷり残りました

しかしイエスは、群衆を50人くらいずつの組にして草の上にすわらせるよう指示すると、パンと魚を取り、天を見上げて祝福されました。そのパンと魚を、使徒たちが群衆に配り始めると…。大群衆が全員たらふく食べ、しかも余り、もったいないので集めたら、なんと十二ものかごがパンと魚の残りでいっぱいになったのでした[2]。人々はこの奇跡を見て、この方こそ救い主だ!と騒ぎました。

☆わたしがいのちのパンです。(ヨハネ 6:35)

群衆はもう目の色を変えてイエスを追いかけ回すようになっていきます。そりゃそうです。いろいろ教えてもらえるわ、病気は治してもらえるわ、タダで食事はもらえるわ! でもイエスは彼らに、“本当に大切なこと”を教えられました。あなたがたが私を追うのは、タダで満腹したからです。だがそのパンは、食べればなくなる。

朽ちる食物のためではなく、
永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。
これは人の子があなたがたに与えるものである。

(口語訳聖書 ヨハネ 6:27)

私がいのちのパンです。食べてもなくならない。私を信じる者は、飢えることも渇くこともない。神のみこころは、私を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。…

おなかいっぱいになるまで食べれば、この肉のからだを何日か生かすことができます。それは人間にとって、とても恵まれた、幸せなことです。ただ人は“食べる”心配がなくなると、決まって同じ不安を感じ始めます。この生きている自分は、今日何をしただろう? 何のために生きているんだろう?… その答は、神さまがお持ちです。神さまのおことばを聞く、つまりイエスさまの教えを食べれば(心に入れれば)わかるのです。そして、その「いのちのパン」が生かすことができるのは、“何日か”ではありません。“永遠”です。

しかし残念ながら、この時人々はまだ、そのことが理解できませんでした。タダのパンが欲しかった人々は、みなイエスから離れて行きました。

参考

[1] 小麦でなく「大麦のパン」は、貧しい階層の人々の食物でした。少年はおそらくなけなしのお弁当を提供したのでしょう。

[2] 私たちが日頃食べているパン=イースト菌で発酵させたパンは、冷蔵庫に入れなければすぐにカビてしまいますが、「種入れぬパン」はずっと長く日持ちします。この「お残し」も、また次の機会に有効利用されたことでしょう。「12かご」ということは、十二使徒たちへの報酬にしてくださったのかもしれませんね。
“種入れぬパン”を焼いてみよう

城山キリスト教会 関根弘興師礼拝メッセージ@2018.7.8

ぬりえ

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