その日ある町で、イエスはなんとパリサイ人の家に食事に招かれていました。パリサイ人といったら、律法第一! 律法破りのイエスは敵だ!!と言っている一派です。
☆その町にひとりの罪深い女がいて…(ルカ 7:37)
シモンという名のそのパリサイ人は、イエスを陥れようとでも考えていたのかもしれません。けれどイエスは、彼の招きに応えてやって来られました。
その食事の席は、自由に人が出入りできるものだったようです。一人の女が香油のつぼを手に入ってくると、イエスのそばに来て、御足にすがりつきました[1]。そして、涙でイエスの御足をぬらし、自分の髪でぬぐうと、香油を塗りました。シモンは心の中で、イエスが本当に預言者なら、この女がどれほど汚れた罪深いやつかわかるはずだ.. こんな女にさわらせるままにするなんて… と思っていました。
しかしイエスは、ひとつのたとえを語ると、シモンにこうおっしゃいました。彼女がわたしにしてくれたことは、すべてあなたがわたしにしてくれなかったことです…
☆少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。(ルカ 7:47)
シモンに語られたたとえとは、こういうものでした。
“二人の者が金貸しから金を借りた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ[2]。二人とも返すことができなかったので、金貸しは二人とも赦してやった。二人のうち、どちらがよけいに金貸しを愛するようになるだろうか?”
シモンは答えます。「多く赦してもらったほうです…」
それであなたに言うが、この女は多く愛したから、
その多くの罪はゆるされているのである。
少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない(口語訳聖書 ルカ 7:47)
シモンはイエスに、足を洗う水も出さず、挨拶の口づけをすることもなく、もてなしの香油をぬることもしませんでした。招待客を“愛している”とは、とても言えませんね。
これは、たくさん良いことをすれば、その分罪が赦されるという意味ではなく、“多くの罪を赦された者ほど人を愛せるようになる”ということです。“シモンの方が女より罪が少ない”という話でもありません。かなりの律法違反をしたらしい女と、神の子をろくにもてなしもしない男とどちらの罪が重いのか、人間にはわかりません。ただ女の方が「自分の罪は多い」と自覚していたことは確かです。
犯罪とは呼べなくても、誰かにひどいことをしたり言ったりした経験や記憶は、自覚しようがしまいが、人の魂の奥底に、重りのように沈んでいます。それを軽くしたくて、逆に“たいしたことじゃない” と思い込もうとしたりして。私たちはまず、その重りに向き合い、それを神さまに軽くしていただきましょう。その罪が消し去られると、心がスッキリして、たくさん人を愛せるようになります。愛するという行為は、人間の心を本当に満ち足らせるものです。まず自分が傷つけた相手に謝って許してもらわなきゃ、神の前に出られないんじゃないかと考えるのは誤り。神さまに赦していただくのが先です。そうすれば、次に、誰に、何をしなくてはならないかを、教えていただけますよ。
参考
[1] 実際には「(女は)イエスのうしろで御足のそばに立ち…」と書いてあります。当時の食事の様子は、ローマ風の「横臥食卓」と呼ばれるもので、“イスに座る”と言うよりは“ベッドに横になる”に近いスタイル([triclinium](トリクリニウム)で画像検索)。女はイエスの足元の側から“ベッド”に近づき、御足のそばにかがみこんだものと思われます。
客人を迎え入れたら、その足を奴隷に洗わせ、香油を頭に塗り、くちづけをする…等の行為は、家の主人が客人にするべき当然のもてなしでした。イエスのおことばによれば、シモンはそのどれひとつとして、招待客であるはずのイエスに行なわなかったようです(ルカ 7:44–46)。
[2] 古代の外国の金銭価値を現代の日本に置き換えるのは難しいですが、「1デナリが1万円くらいかなあ?」でいいのではないでしょうか。聖書の中に、労働者の日給を「一日一デナリ」(マタイ 20:2)としている箇所があるからね…と。