イエスさまも親しく交流する友人をお持ちでした。マルタとマリヤ姉妹。そしてその兄弟ラザロ。イエスさま一行は、たびたび彼らの家を訪れていらっしゃいました。
☆わたしたちの友ラザロは眠っています。(ヨハネ 11:11)
マルタとマリヤ、ラザロたちが住んでいたのは、エルサレム郊外のベタニヤという小さな村でした。福音書には、以前にもイエスが彼らの家でもてなしを受けている様子が描かれています。お忙しいイエスがしばらくゆっくりと過ごせる、いこいの場所だったのかもしれません。
ところがこの家で、大変なことが起きました。ラザロが重病になってしまったのです。マルタとマリヤはイエスのもとに使いを走らせました。「先生! あなたの愛する友が病気です!」。マルタもマリヤも一刻も早くイエスにおいでいただいて、ラザロを治してほしかったでしょう。けれどイエスは、不思議なことを使いに言いました。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」そして、その場を動こうとはなさらなかったのです。
イエスが「さあ、出かけよう」と弟子たちに言われたのは、その二日後でした[1]。「ラザロが眠っているから起こしに行く」と。弟子たちは「?」となります。眠っているだけなら、行かなくても大丈夫でしょう…? エルサレム方面は危険です。…彼らの心配ももっともでした。そこにはイエスを敵視する者がおおぜいいるのです。しかし、イエスは言われました… ラザロは死んだのです。私がその場にいなくて良かった。あなたがたが信じるためには。
☆わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ルカ 11:25)
イエスと一行がベタニヤに着いた時には、もうラザロは死んで四日もたっていました。とっくに墓の中です。が、イエスが村に到着したと聞き、マルタは迎えに出てきました。主がここにいてくださったなら、ラザロは死ななかったでしょうに!と泣きつくマルタに対し、イエスのお返事は「ラザロはよみがえります」。 え?となるマルタ。そうですね、終わりの日にはよみがえりますね…。「違います。」
「わたしはよみがえりであり、命である。
わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、
いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(口語訳聖書 ヨハネ 11:25–26)
「信じます」と答えながらも、マルタにはその意味がまだわかっていません。あとからやってきたマリヤも「先生がいてくださっていれば…!」と泣くばかりです。皆が泣いているのをご覧になると、イエスも共に涙を流されました。そしてラザロの墓においでになると、墓の入口の石を取りのけさせました。主よ、もう遺体は腐り始めています!と焦るマルタ。が、イエスは皆に聞こえるよう神に祈ると、大声で墓に呼びかけました。「ラザロ、出て来なさい!」…ラザロは出て来ました。布で巻かれたまま。それが本物のラザロだと知った人々は驚き、皆イエスを信じました。[2]
愛する人と死に別れることは何よりもつらいものです。死がおろかな人類の罪の結果だとしても。イエスはその悲しみに寄り添い、一緒に泣いてくださいます。でもそれだけではありません。私たちを死の恐怖から解き放つことができる方なのです。代わりにいのちを与えてくださるのです。
参考
[1] 誰がどう見ても、死んだと思った人間が息を吹き返すとはとても考えられない、仮死状態だったのではないかと疑われる余地の無い、充分な期間を取られたものと思われます。
[2] この「ラザロ復活事件」のニュースがもたらされた時から、宗教的指導者である祭司長やパリサイ人たちは、“危険分子”イエスの殺害計画を立て始めました(ヨハネ 11:53)。愛する友ラザロをよみがえらせるのと引き換えに、イエスさまご自身の命は十字架に近づいて行ったのです。
ぬりえ
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