イエスは山の上で、お選びになった使徒たちに、大切な教えを語ってくださいました。その内容は、使徒たちも、彼らを取り囲んでいた民衆も、驚くようなものでした。
☆義に飢え渇く者は幸いです(マタイ 5:6)
「山上の説教」は聖書の中でも有名で大事な箇所です。長いので5回に分けて学びます。[1]
まず最初のおことばは…
《「8つの幸福」を紙に書き出しておく》
こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。(口語訳聖書 マタイ 5:3–10)
当時のイスラエルでは「神に祝福されている人」とは、健康でお金持ちで、家庭に恵まれている人=子供がおおぜいいる人のことだと考えられていました。そしてその祝福を手に入れられるのは「神の律法をきっちり守れる人」だと、祭司や律法学者たちから教えられていたのです。
しかしイエスは、正反対のことをおっしゃいました。
(自分は神さまから祝福されていないんだ…)
(だって貧乏人だ… 病気だし… 強くもない…)
(みんなからバカにされて… ダメなやつなんだ…)
そう思う者は、そのままの姿で、神さまにすがりつきなさい。あなたが、ありのままの思いをさらけ出してふところに駆けもどってくるのを、神さまは待っておられる。傷ついた心をなぐさめ、勇気を持てるよう励まし、病をいやし、最高の愛と幸福を与えようと、両手を広げてずっと待っていらっしゃるのだ!
☆あなたがたは、地の塩です。…、世界の光です。(マタイ 5:13&14)
それから、このように続けられました。「あなたがたは、地の塩です」。
《[Israel, rock salt](イスラエル 岩塩)で画像検索 本物があればそれを見せてあげるといいですね》
塩は、食物をおいしくしつつ、腐らせない働きをするものです。この世の人々に、“おいしい思い”をさせながら、社会が腐っていくことを食い止めなさい。
次に「あなたがたは、世界の光です」。
《聖書考古学資料館 〜ランプの変遷〜ヘロデランプ》
その光を輝かせて、この世を照らし、それを見て人々が神をあがめるようにしなさい。
ここでもイエスはやはり「がんばって、塩や光らしくなりなさい」とは言っておられません。神さまに従うなら、あなたはもうすでに塩です。光です。…とおっしゃるのです。だから塩けをなくしてしまったり[2]、光にフタしてしまったり[3]しないようにだけ、気をつけていなさい…
そう、いつも神さまと一緒にいようと決意さえすれば、イエスご自身が私たちの中で、塩に、光に、なってくださるのです。ならば、自分がどんな状況に置かれても、もうこわがらなくていい! 人々の前で明るく輝きながら、この世に平和をつくり出していく者と変えていただけます。
参考
[1] もっと短いけれども、よく似た内容の箇所が、ルカの福音書6:17–49にあります。マタイでは“イエスは山に登って”教えているのに対し、ルカは“山を下り、平らな所で”話しだされたと書いているので、前者が「山上の説教」、後者が「平地の説教」と呼ばれ、区別されています。ただし、このような内容の教えがこの2回だけだったわけではなく、イエスはこの教えを、いろいろな場所で何度も語られたと考えられています。
[2] 「塩が塩けをなくす」というのは、日本人にはわかりにくい例えですが、当時のイスラエル、特に貧しい人々にとっては、身近でイメージしやすいものだったようです。貧困層は、塩分を含んだ泥の塊から浮き上がってくる結晶をつみとったものを、塩として使っていました。そのうち結晶は浮かんでこなくなり、ただの泥の塊になったものは外にポイッと捨てられたわけです。
[3] 「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。」(マタイ 5:15) 「枡」というのは、ランプの灯火の消火道具のことです。おそらくボウル状の器で、ランプを完全に覆うことのできる大きさです。灯火の油は、吹き消すとかなりの臭いが残ってしまうものだったらしく、消す時には「枡」をかぶせたのです。
立川福音自由教会 高橋秀典師礼拝メッセージ@2011.7.17
ぬりえ
- 「山上の説教」のぬりえをダウンロード(JPG)