(16) ナザレでの排斥

イエスさまは、ナザレに行かれました。ご自分が育った町です。ご自身は今カペナウムに住んでいらっしゃいますが、兄弟姉妹たちはナザレで暮らしていたようです。

☆きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました(ルカ 4:21)

ある安息日。イエスさまはお礼拝のため、いつものように会堂に入られました。そして朗読をしようと立たれました。ユダヤ人は、男性なら誰でも、祈りや聖書朗読、説教などの奉仕ができたのです。この時イエスに、イザヤ書が手渡されました。

《[Dead Sea Scrolls](死海文書)で画像検索 当時の聖書は各書がそれぞれ巻物になっていた》

イエスはこう読み上げられました。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」

それからおすわりになると、ご自分に注目している人々に話し始められました。[1]
「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

巻物
イエスに イザヤ書が手渡されました

イエスの口から出て来る恵みのことばの数々に、皆はたいへん驚き、ほめたたえました。あの、大工のヨセフんちの子が!と。よほどイエスの教えに権威があったものと思われます。

☆預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません(ルカ 4:24)

ところが、ふるさとナザレの人々の反応は、次のイエスのことばを聞くと一変しました。

「よく言っておく。
預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである」

(口語訳聖書 ルカ 4:24)

郷里の人々は、同郷の人物が預言者となっても敬わない。つまり彼のことばを信じない。信じなければ、神の恵みも救いも与えられない。その救いは、ユダヤ人でなく、神を信じる外国人のものとなるだろう…。

はああぁぁあ!? 何ふざけたこと言ってんだ大工の子!…聞いていた人たちは怒り狂い、イエスを痛めつけてやろうと町はずれのがけっぷちまで引っぱって行きました。そこから下に投げ落とすつもりです。

郷里では歓迎されません
ナザレ人は イエスを救い主として受け入れられなかった

しかしここで、イエスは不思議な力を見せました。おおぜいの人の間を抜けて、何ごともなかったかのように行ってしまわれたというのです。“彼らの真ん中を通り”とありますから、スキを見て逃げ出した…とかではなさそうです。どんな光景だったのかは想像するしかありませんが、神の御子が特別な権威を持っていらしたことは確かです。

その子の小さかった頃を知っている人は、その子が大人になり、立派になって帰ってきても、結局元の子ども扱いしてしまう。よくある話ですが、そのおかげでナザレの住民は、ずいぶんもったいないことをしてしまいましたね。

現実は、イエスのことばどおりになりました。ユダヤ人が信じなかったため、福音は外国人にもたらされたのです。ですが、それもすべて神さまはご存じだったこと。最後にユダヤ人も救われると、聖書にはしるされています。

参考

[1] これが当時のイスラエルの礼拝の形式であったと考えられます。おそらく進行役の人がいて、その日の奉仕者(指導者)を指名し、聖書を渡す。奉仕者はまず立って祈り、聖書を朗読し、その後座ってから教えを説いたようです。
立川福音自由教会 高橋秀典師礼拝メッセージ@2011.9.4

ぬりえ

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