祭司や律法学者たちの議会サンへドリンは、証拠も無ければ証人も見つけられないというのに、たった一晩の協議で「イエスは死刑」という判決を下しました。そのころ…
☆「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」(マタイ 27:4)
ペテロと同様、師イエスを裏切ったことを悔やんでいる弟子がもう一人いました。銀貨三十枚で祭司長や律法学者たちにイエスを売ったイスカリオテのユダです。
ユダは「まさか死刑判決が出るなんて…」とショックを受けたようです。彼が何のために師を売ったのかはっきりとはわかりません。自分が思い描いていた「新しいユダヤの王」と現実のイエスが違う!と腹を立てたのかもしれません。組織の金を使い込んでしまうような男でしたから、借金でもあって金が欲しかっただけかもしれません。いずれにせよ「死刑」が現実のものとなってきた時、彼は猛烈に悔やみ、祭司長たちのところに銀貨三十枚を返しに来たというのです。一銭も手をつけていなかったのですね。
金を差し出すと、ユダは言いました。「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」ところが祭司長たちの答えは…「知るか!」。われわれの知ったことじゃない! 自分で始末するがいい! …ユダは最後まで悔い改めの機会を与え続けてくださったイエスを思い出したのではないでしょうか。自分を利用するだけして、あとは「お前などどうでもよい」と突き放してきた“指導者”たちを前にした時に。
☆彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。(マタイ 27:5)
後悔に押しつぶされたユダはもう、この世に自分の居場所はないと絶望したのかもしれません。彼は神殿に金を投げ込むと、出て行って首を吊りました。
祭司や律法学者にとって重要なのはイエスです。彼らが相談したのは、用済みのユダのことではなく、彼が置いて行った金のことでした。汚れた金は神殿の金庫に入れられん!と、“陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした”。マタイはこのことを「エレミヤの預言が成就した」と書いています。
同じように主を裏切り、同じように後悔したのに、ペテロはやがて立ち直ってイエスと同じ働きをすることになりますが、ユダは破滅を選んでしまいました。何が違ったのでしょう。罪の大きさ重さ? ユダには“悪意”があったけれど、ペテロは“恐れた”だけだから? 本当のところは神さまにしかわからないでしょうね。
主を見捨てたことを悔いて大泣きしたペテロはやがて、よみがえりのイエスに問われ、おずおずとしながらも、それでも私はあなたを愛します…と答えています。何度も。そして主イエスは、それが真実であることをご存じでいる様子です。ユダはこの「愛」を見失ってしまったのかもしれません。神を愛し、隣人を愛し、自分を愛することを。愛を失うと、人間は生きていけなくなるのでしょう。
神のみこころに添うた悲しみは、
悔いのない救を得させる悔改めに導き、
この世の悲しみは死をきたらせる。(口語訳聖書 Ⅱコリント 7:10)
たとえどれほど重い罪を背負ってしまったとしても、どれほどの後悔に苛まれたとしても、神さまの愛にすがることを決してあきらめてはなりません。
参考
[2] 「ユダの後悔」を描いた画家たち
「Judas Returning the Thirty Silver Pieces(1629)」Rembrandt Harmenszoon van Rijn 他