(65) 律法学者に気をつけなさい

イエスさまがこの世におられる時間はあとわずかです。主イエスはギリギリまで弟子たちやユダヤの群衆に警告を発し続けられます。「パリサイ人の教えに注意せよ!」

☆わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。(マタイ 23:13)

パリサイ派の律法学者たちの教えは、聖書に反している、間違っているわけではないのです。イエスもそのように言っておられます。彼らの教えは確かにモーセに与えられた神の律法である、それらは皆、正しく守り行ないなさい…。だがパリサイ人の行ないはマネをするな!

神の教えは適当に解釈をし、民衆を支配する、国家を守ることが最優先になってしまっていた祭司やその階層の人々(サドカイ人)に対し、厳格に律法に従い、欲をかくこともなく、民の手本として生きようとしていたパリサイ人たちは、本当に民衆から尊敬されていたのです。しかし彼らの中には、とても重要なものが決定的に欠けていました。他者への愛です。自分たちは他のダメな者どもとは違う。神の教えを守り、断食も献金もしている。街角で長い祈りをし、皆から賞賛されている。それらをできない者たちには行くことのかなわぬ神の国にわれわれは迎え入れられ、高い位に着かせていただくのだ…!

そんな彼らにイエスのことばは容赦がありません。「わざわいだ。偽善者。愚かもの。蛇。まむし。目が見えないのに手引きしようとする者。外側だけは人に正しく見えても、内側は汚れたものでいっぱいだ!」…そして民には、「彼らを師とするな。あなたがたの師はキリストのみ、父は天にいます神のみ。」

イエスは、民衆に対しては、これほどまでにというほど優しい愛を示されましたが、その民を間違った方向に導こうとする者たちのことは、ものすごく厳しく糾弾なさいました。「人々を指導する者」の責任は、そのくらい重いのですね。[1]

☆乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。(ルカ 21:4)

やもめの献金
未亡人の献金はわずか二枚の銅貨 しかしそれをご覧になったイエスは…

それに比べ、誰からも気づかれずに社会の片すみでひっそりと生きているような、わびしい貧しい人々のことを、イエスは必ず見守り、慈しんでおられます。

イエスはその時、神殿の献金箱に人々が献金を投げ入れる様子をご覧になっていました。おおぜいの金持ちが大金をドカドカ入れていましたが、そこにひとりの貧しい女性がやってきて、レプタ銅貨2枚を箱に入れたのです[2]。現代の日本で言うなら、200円から400円くらいといったところでしょうか。女性は「やもめ」=未亡人だったとありますから、当時のイスラエルでは苦しい生活だったでしょう。が、それを見たイエスは弟子たちを呼んで言われました。

「あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。
これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、
あの婦人は、その乏しい中から、
持っている生活費全部を入れたからである」。

(口語訳聖書 ルカ 21:3–4)

彼女は、献金がわずかであることを恥ずかしいと思っていませんでした。生活費を全部ささげてしまっても、自分の暮らしは神さまが守ってくださると信じていました。他の人々と自分を比べることはなく、ただ神への信頼だけがあったのです。私たちに必要なのも、それだけです。

参考

[1] 「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」ヤコブの手紙3:1。教会学校の教師も、これらの聖句を心に刻みつつ、任務に取り組んでいく必要があります。またCS教師を導く牧師先生の責任も大変重いということです。組織や集団の指導者のために、日々祈っていきたいですね。

[2] この「やもめの献金」記事は、マルコでもルカでも、「律法学者たちに気をつけなさい」のすぐあとに記されています。つまりここでのイエスのお言葉は、律法学者の教えとイエスの教えとの違いに焦点を当てて読み取らなくてはならないということです。何が違うかと言えば、“心に神への信頼があるかないか”です。決して“全財産を捧げることが神に喜ばれること”だと生徒に勘違いさせないように気をつけたいと思います。それでは「ゆるやかに餓死しろ」と言っているようなものです。イエスさまがそんなことをおっしゃるはずはないことは、聖書から明らかです。ご自分についてきた何千人もの人々が「空腹」でいるのを「かわいそうに」と思われ、パンと魚を満腹になるまでごちそうしてくださった方なのです。

立川福音自由教会 高橋秀典師礼拝メッセージ@2009.6.7

ぬりえ

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