(62) ダビデの子にホサナ!

民衆に熱狂的に迎えられたイエスさま。一日目はエルサレム神殿の中を見て回られただけで、夜はベタニヤに行ってお泊まりになりました。明けて2日目。

☆世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。(ヨハネ 12:19)

その日もまたイエスは神殿に入って来られると、今度はたいへん激しいお仕置きをなさいました。神殿の中であくどい商売をしている者たちを追い出し、台やイスをひっくり返し、もう二度と来るなとおっしゃったのです。以前にもなさった「宮きよめ」[1]ですが、そのあとまた商売人たちは戻ってきていたのですね。ユダヤ人でない人たちが唯一入れる場所が彼らにのっとられていました。神殿に納める税金はそこで両替をしなきゃダメ、神さまにささげるいけにえの動物もそこで買わなきゃダメ。彼らの客引きの声が、境内にぎゃんぎゃん響き渡っていたことでしょう。

「わたしの家はすべての民の祈りの家なのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている!」イエスの怒りは凄まじいものでした。神の御子が本気で怒るのですから、逆らえる人間はいません。ましてイエスには今、大群衆がついています。祭司やパリサイ人(律法学者)たちは、イエスを捕えたくても、群衆の暴動が恐くて手が出せませんでした。

どうしたらいいんだ! 何一つうまくいかないじゃないか!! 民はみなイエスの方についていってしまう!

彼らも必死でした。自分たちの信じてきたこと、やってきたこと、教えてきたことすべてを否定するイエス。彼が王になれば、我らの居場所は無い。もしも彼が革命に失敗したとしたら、ローマ帝国の圧力は増し、やはり我らの権力は奪われるだろう。早く殺さなければ… やつを抹殺しなければ…!

☆ダビデの子にホサナ。(マタイ 21:17)

ダビデの子にホサナ
子供たちの歓声にまで 律法学者たちは苛立った

祭司長や律法学者たちがご自分を殺す相談をしているのを、もちろんイエスはご存じだったでしょう。しかしそれにはまったくかまわず、イエスは祭りのあいだ毎朝エルサレムにやって来られました。昼は宮で民衆を教え、病人を治し、夜になると町を出て、オリーブ山で祈って過ごされたのです。

ある時、宮の中で子供たちが「ダビデの子にホサナ!」と叫んでいるのを見て、律法学者たちがブチ切れました。なんと子供らまで…! お聞きですか、子供たちが何と言っているか! イエスは静かに答えられます。

「そうだ、聞いている。
あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口に
さんびを備えられた』とあるのを
読んだことがないのか」。

(口語訳聖書 マタイ 21:16)

それは詩篇の8編、ダビデが主を讃えた歌です。律法学者たちは、本当に誰よりも聖書に精通していた人々でした。イエスが神の子であり、真の救い主であることを証明することばは、聖書の中にはたくさん出てきていました。でも彼らは、神でなく、自分たちのことばかり考えてしまったために、それがどうしてもわからなくなっていたのです。彼らが、幼い子供たちのように“自分の無力さを知っている者”であったなら…。

しかし彼らのイエスに対する敵意は、ただただ増していくばかりでした。今はイエスの入城に熱狂して歓声を上げている民衆も、やがて彼らの誤った指導に引きずられていくことになります。[2]

参考

[1] イエス・キリストの生涯 (11)最初の宮きよめ

[2] 「ダビデの子にホサナ!」と熱狂していた大人たちが、一転して「イエスを十字架につけろ!」とわめく姿を見て、子供たちはどう思ったでしょうね…。ある子は大人のマネをするのが良いことだと考えて自分も同じようにしたでしょうし、ある子は大人たちの豹変ぶりに混乱するばかりだったでしょう。中には本能的に大人が間違っていることを悟った子もいたかもしれません。いずれにしても、大人は簡単にコロッと言ってることを変えてしまうもんなんだな〜…と学んでしまっただろうと思います。子供たちを指導する者の責任は本当に大きい。教会学校の教師も、そこは心してご奉仕していきたいですね。
ただ、教師の仕事をあまり負担に思う必要はありません。主イエスが徹底的に糾弾したのは、祭司長や律法学者たち、つまり民衆を導く立場にある権力者たちです。一般民衆に対して「罪人よ!」などと非難されたことは一度もありません。やがてご自分の代わりに人々を指導するようになる十二使徒たちは辛抱強く訓練なさいましたが、その根底にはいつも愛が溢れていました。むしろ、権力者たちの間違った教えに引きずられぬよう、ずっと守っていてくださいました。私たちCS教師も、主は誤った方向に行かぬよう守りながら訓練してくださっているのです。それぞれに与えられたタラントを生かしつつ、仲間がいれば励まし合いつつ、任務を果たしていきましょう。

ぬりえ

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